五番目物「鬼顧」

茨木童子


番組: 伝

五番立: 五
演目: 十

編: RD-Sounds
詞: 同上
演: めらみぽっぷ
原曲: 華狭間のバトルフィールド
上演時間: 六分三十七秒


◇概要

『伝』収録の五番目物。「伝達」をテーマとするアルバム『伝』の大きな特徴は、日本の伝統芸能「能楽」における「五番立」と呼ばれる演目形式にならった構成だ。アルバム『伝』はテーマ「伝達」に加えて、東方心綺楼にて登場した秦こころのモチーフのひとつ「能楽」を織り交ぜたアルバムと言えよう。

この「五番目物」とは別名「切能」と呼ばれ、能楽の演目形式「五番立て」における最後の演目にあたり、主に人間以外の異類が登場する能が演じられる。例えば、鵺、天狗、土蜘蛛、怨霊、そして鬼といった東方Projectにも登場する人外異類の種族が登場し、中でも鬼が登場する能は「鬼物」または「鬼退治物」と呼ばれる。ちなみに公式サイトにある五番目物「鬼顧」の試聴ファイル名は「kichikudemo.mp3」となっており、これは五番目物の別称「鬼畜物」に由来していると推測できる。

五番目物「鬼顧」は東方深秘録にて初披露された『華狭間のバトルフィールド』を原曲とし、この原曲は東方深秘録の公式ホームページでは茨木華扇のBGMとして紹介されている。さらにブックレットには茨木華扇の姿が描かれていることから、片腕有角の仙人「茨木華扇」をシテ(主役)とする演目であることは明らかであろう。ちなみに実在する能の演目には、茨木華扇の元ネタにあたる「茨木童子」が登場する「羅生門」があり、この演目も五番目物に分類されている。

演目名「鬼顧」の読み方は現在でもまだ判明していないが、訓読みするなら「おにかえりみる」または「おにがえり」、音読みするなら「きこ」、可能性は低いが湯桶読みして「おにこ」とも読めるのだろうか。

2020/8/23追記
iTunesStoreにおける英語表記から「おにがえり」と読むことが判明した。

”鬼” はそのままの意味だとして、 ”顧” の字にはどんな意味が込められているのだろう。漢字 ”顧” の動詞は「顧みる」であり、「振り向いて後ろを見る」「○○を気にかける」「過ぎ去った事を思い返す」といった意味を持つ言葉である。五番目物「鬼顧」は、茨木華扇が自身の生い立ちを思い返しながら己が生きるべき道を示す歌詞となっており、”顧” の字は他者ではなく己に向けられた言葉、即ち「己の過去を思い返す」「己を見つめ直す」といった思いが込められているのだろうか。

歌詞中に「血の味を覚えて」「大江山」「羅生門」といった茨木華扇の元ネタ「茨木童子」のモチーフが見受けられるため、まずは元ネタについてまとめていく。また、めでたく完結を迎えた東方茨歌仙にて描写されてきた茨木華扇の過去や思想を顧みて、五番目物「鬼顧」についての理解を深めようと思う。

※この記事には東方茨歌仙の重大なネタバレが含まれるため、読む際は注意して下さい。


◇元ネタ「茨木童子」

茨木華扇の名前そのもの、二つ名「片腕有角の仙人」、作中の「腕」を求める行動、「水消えて波は旧苔の髪を洗う」という句。東方茨歌仙が連載開始した当初、茨木華扇には「茨木童子」の要素が多く見られたこともあり、ファンの間では茨木華扇の元ネタとして「茨木童子」が真っ先に挙げられていた。

その後、豆まき大会や鰯の頭と柊の葉に対して激しく嫌悪する描写(茨歌仙第三十二話)、鬼の四天王・伊吹萃香と過去関係があったことを匂わせる会話(茨歌仙第二十話)など、仙人・茨華仙の正体を仄めかすような描写が何度もされ、ついに茨歌仙第四十六話では「茨木童子の腕」というキャラクターが登場し、腕と融合を果たした茨木華扇が鎖を付け角の生えた鬼の姿となったことで茨木華扇の元ネタは歴然なものとなった。

この項では五番目物「鬼顧」の歌詞中に登場する「血の味を覚えて」「羅生門」「大江山」といった歌詞と関係が深い、モチーフ「茨木童子」についてまとめてみよう。あくまで元ネタであるため、東方Projectにおける茨木華扇の設定そのものではないことに注意しよう。

まず、室町時代から江戸時代にかけて作られた物語文学群「御伽草子」のひとつ「酒呑童子」に茨木童子の存在が確認できる。平安時代の大江山を舞台に頼光四天王が活躍する鬼退治譚であり、大江山に住む鬼・酒呑童子の配下として茨木童子が登場する。また、天和元年(1681年頃)に成立した通俗史書「前太平記」の巻第二十「酒顛童子退治事」も同じく、頼光四天王による大江山の鬼退治伝説が収録されており、「茨木」の名で大江山の城を守る酒顛童子の腹心の眷属として登場している。

これら大江山伝説は人間側の勝利・鬼側の敗北で終わり、大江山の戦いでは茨木童子は逃げ延びたとされているようだ。その大江山伝説の後日談(媒体によっては前日譚)として「羅生門の鬼」の伝説が語られており、これに茨木童子が登場する。

大江山・酒呑童子の征伐後に平安京の南部にある大門・羅生門に住み着いた鬼の噂を聞きつけた渡辺綱が羅生門にて鬼・茨木童子と交戦した末に鬼の腕を切る。

その後、陰陽師の助言により綱は七日七夜の物忌みをし、その最中に養母(または伯母)が綱の元を訪ねてきたが、この養母は鬼が化けたものであった。鬼は綱を謀って切られた腕を取り戻し去っていった。

上記の話は「前太平記」巻第二十(異説)などにその記述がみられる。ちなみに鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」劔の巻にも同様の羅生門の鬼の話があるが、これには「茨木童子」「茨木」等の記述はない。

茨木華扇の片腕がない事はこの話が元となっているようで、茨歌仙第四十六話以降には「茨木童子の腕」が登場し、最終話では茨木華扇が鬼切丸によって腕を切られた過去が描写されているが、原作では腕を切られたロケーションは語られていない。五番目物「鬼顧」では「羅生門」と歌詞中にあるが、この鬼の腕切の話は一条戻り橋パターンの伝承も存在している。ちなみに大江山や羅生門の伝承が記述されている「前太平記」巻第十七には一条戻り橋の鬼の腕切も書かれているが、これは茨木童子ではなく宇治橋の鬼女(東方的にはパルスィの元ネタか)が腕を切られたとされ、この話の結末では鬼の腕を切った太刀「髭切」が「鬼丸」と改名され、後の大江山の戦いにて酒顛童子にとどめを刺している。「太平記」では源満仲が戸隠山の鬼を切ったことから「鬼切」と名付けられたと記述があるなど、この太刀のルーツ、来歴、名前に至るまでは作品によってさまざまな通説がある。この太刀については、東方茨歌仙では「妖刀 鬼切丸」という名前であった。

こういった大江山や羅生門の鬼などの伝説は江戸時代に栄えた芸能文化である歌舞伎、人形浄瑠璃、長唄、そして能楽の題材として使用され、広く人々に知れ渡るようになり、21世紀の我々の時代においても媒体や形を変えてそれら伝説が語り継がれている。作品によって固有名詞や話の展開が違っているのは、人々に口伝される過程で時代や地域によって形を変えていったからなのかもしれない。ここは『伝』のテーマ「伝達」の要素として面白みがある部分である。

また、茨木童子のルーツの一つとして摂津の国(現・大阪府北中部と兵庫県南東部)に伝わる民間伝承が存在する。大阪府茨木市には、その市の命名に関係するかは不明であるが、町中に茨木童子の銅像があったり、茨木童子をモチーフとしたマスコットキャラクターが存在したりなど、現代でも茨木童子の伝承の跡が見られる。摂津に伝わっている伝承の内容はこうだ。

ある時、水尾村(現・茨木市)に16ヶ月程の難産の末に産まれてきた子がいた。しかし、その子は産まれたばかりの赤子なのに歯が生えそろい、その足で歩き出したという。それを気味悪がった親は床屋の前に童子を捨て、子のいない床屋の夫婦は捨てられた童子を我が子として育て、床屋の仕事を教えた。

ある日、童子は剃刀で客の頬を傷つけてしまい、すぐに指で血を拭ってなめたところ、その血の味が癖になってしまい、以来、客の頬をわざと傷付けては血をなめていた。その行為がバレて父に叱られた童子は小川の橋で落ち込んでいると川の水面に写った自分の顔が鬼となってしまったことに気付き、人の中で生活することを諦め、その後、大江山にて酒呑童子の配下となった。

そもそも平安時代に剃刀や床屋があるのか?という疑問はさておき、口伝されてきた民話である故か、語り手や書物によっては物語の内容に細部異なる部分も出てくるが、その多くは「人として生を受けた存在が血の味を覚えて鬼となる話」であり、五番目物「鬼顧」の歌詞にもその要素が伺える。しかし、原作においては、この摂津の伝承の要素が茨木華扇に含まれていると解釈できる描写は存在せず、茨木華扇が元は人であったという話は原作にはない。五番目物「鬼顧」における「血の味を覚えて」という歌詞、砕動風と力動風、「人に戻れず」という歌詞などに見られる「人が鬼となる事」の要素が、摂津の伝承と重なるが、「摂津の国」「水尾村」などの固有名詞が出ているわけでなく、あくまでその要素が感じられる程度である。もしかすると原作にない要素であるからにあえてぼかしているのかもしれない。

ちなみに東方Projectの世界観で「人が鬼となること」が起こりうるかという話では、茨歌仙第十七話にて茨木の百薬枡の副作用として「性格だけでなく体そのものも鬼となっていく」と語られているため、「人が鬼となること」は起こりうる現象といえよう。

もしかしたら茨木華扇も・・・。おっと、これは原作で明確に描写されていない上、まだ不明なところである。

以上、元ネタ「茨木童子」について振り返った。次の項では茨木華扇がどういったキャラクターであったかを振り返ろう。


◇茨木華扇の語る「天道」

この項では茨木華扇がどのような人物で、どのような思想を持っていたかを完結した東方茨歌仙をメインに振り返っていく。

全てを思い出していたのです
この世に生を受けてから今までに起こった全ての出来事を

―『東方茨歌仙』第一話 茨木華扇のセリフより引用

まずは初登場時、大門にて「水消えて波は旧苔の髪を洗う」と詠いながら、過去に起きたすべての出来事を繰り返し思い出すという寿命を延ばす修行を行っていた。「水消えて~」の歌は「百鬼夜行拾遺」や「十訓抄」等に伝わる都良香と羅生門の鬼が歌を詠みあった説話からきている。見かけは仙人らしく修行をしているが、正体が鬼であることを初登場時から匂わせているところに面白みがある。茨木華扇がしていた「過去を思い出す」という修行はすなわち「鬼が己を顧みる」行為であり、五番目物「鬼顧」のタイトルに込められた意味に通づるものが感じられる。

私はただ・・・人間と旧地獄の繋がりを封じたいだけ
仙人みたいな生活をしているのもただの隠れ・・・
なんでもありません今のは忘れてください

―『東方茨歌仙』第二話 茨木華扇のセリフより引用

第二話では深く旧地獄から湧いた間欠泉をなぜ放っているのかと八坂神奈子に問い、間欠泉の危険性について説明していた。間欠泉と共に湧く旧地獄の怨霊について語ろうとしたが、すぐに「硫黄ガスが人間にとって危険だ」と言い直している。何かを隠しているそぶりを見せており、早苗が人間への危険を顧みる華扇を褒めた際に語った上記のセリフは本心が漏れたかのようにも見える。果たして茨木華扇は人間の味方なのか、茨歌仙初期の頃は華扇の立ち位置がはっきりとしない描写が多くあった。

確かに妖怪は人を襲ってその存在を誇示しないといけないかもしれません
人を襲えば巫女が退治する必要があるのでしょう
ですがそれで良いのでしょうか?
妖怪の中には争いを望まないものがいたって良いじゃないですか

―『東方茨歌仙』第九話 茨木華扇のセリフより引用

第九話では、管狐の一件より霊夢が過度な妖怪退治をしていたことに起因してか、命蓮寺の妖怪が何者かに次々と襲われる事件の犯人として霊夢に疑いがかけられていた。上記のセリフは犯人と疑われた霊夢に対する茨木華扇のセリフである。妖怪に対して同情するような発言をし、仙人として人間の味方をしつつ無害な妖怪を擁護している。この時点ではまだ中立的な立ち位置にも見える。

でも私が仙人をしているのは貴方とは目的が違うわ
私は人に近づきたかったから ですから

―『東方茨歌仙』第十八話 茨木華扇のセリフより引用

茨木華扇が豊聡耳神子と「なぜ仙人になったのか」という話題で会話をしているシーン。正体を隠して仙人・茨華仙として振る舞う理由について、彼女の気持ちが語られている。仙人になる理由として「人に近づきたかった」と語ったことに対して、神子は何かを察した様子で微笑んでいる。欲と素質を読み取る神子の能力を考えると、この発言は華扇の本心によるものと思われ、華扇が人に寄り添う思想を持っていることが読み取れるだろう。

私は貴方側の人間ではない
董子は彼女の意思と能力で幻想郷にやってきている
人隠しは能力の副産物で事故のようなものだと思われる
そこに私は一切絡んでいない
私の理念は天道と共にある!

―『東方茨歌仙』第三十五話『茨華仙の信じる道』より引用

茨木華扇が人間の味方であるのか、はたまた妖怪の手先であるのか、上記はその決着が付いたシーンである。理念を語る茨木華扇の背後には宇佐見菫子や霧雨魔理沙を含めた人間たちが浮かび上がるよう描かれており、茨木華扇の語る「天道」とは何かを物語っている。「天道」はさまざまな意味として読み取れるが、中国哲学・タオにおける「誠は天の道なり。 これを誠にするは人の道なり。」に近いのだろうか。天から与えられた道を踏み外すことなく正しい道を歩む、人の道を踏み外し外道の鬼となることの対極の思想がこのセリフに見えてくる。人間の味方として道を歩むことを妖怪の賢者たる八雲紫に宣言したこのセリフからは決意のような強い意志を感じられる。

五番目物「鬼顧」は歌詞に「このあるところ天の道」とあるよう、己が過去に辿った鬼の道を顧みながら人情あるものを失わぬよう天の道を歩むことを強く宣言しており、「あなかま口を噤め」という歌詞にも茨木華扇の強い意志が感じられる。テーマ「伝達」の上では、五番目物「鬼顧」は古くから伝えられる鬼退治譚に乗せて茨木華扇の思想を伝えようとする楽曲ではないかと私は考えている。

以上、ここまでが2016/12/29『伝』頒布当時までの茨木華扇の情報である。茨歌仙第三十五話が2016年8月にFebri連載で、この話が収録された東方茨歌仙第七巻が2016/12/27に発売されているため、当時としてはとても旬なネタだったと言えるだろうか。

その後、2019年6月に完結を迎えた東方茨歌仙。『伝』頒布以降となる最終局面のストーリー展開において、仙人・茨華仙の正体と過去および神社に近づき腕を求める目的について語られている。次の項では、最終局面にて明らかになった真相とこの項で語った内容を照らし合わせながら解釈を考えてみよう。


◇茨歌仙の真相とその解釈

東方茨歌仙第四十五話以降のストーリー展開にて、茨木華扇の過去と腕を求める目的が語られている。私なりに解釈した上で内容を要約すると以下のようになる。

はるか昔、四天王の一人・茨木華扇は「妖刀 鬼切丸」で腕を切り落とされた。その腕は邪気が籠められた上に封印を施され、華扇は腕を失ったと同時に邪気も失って地獄のような現実に興味を失っていた。その後、彼女は別天地を目指すべく仙人となったが、邪気が籠められた腕はまだ残っており、鬼の腕は封印が弱まるのをじっと待っていたのだった。

彼女は仙人として活動しながらも腕を探すために動き、ついに外の世界の古びた寺に見世物として鬼の腕が放置されているところを発見した。既に何人かの人を食らっていた様子であったため、すぐに腕を確保して再封印を施そうとしたが、封印は腕ではなく本体の方に施されており、腕単体では再封印も消滅もできない状態であった。

そこで、博麗霊夢に鬼の腕を見つけてもらうよう仕組み、さらに「妖刀 鬼切丸」のかけらをおにぎりに隠して渡すことで、腕と本体の合体後に茨木華扇の腕を再度切り落とさせ博麗霊夢に腕に対して再封印をしてもらう策を講じて実行し、紆余曲折あったものの思惑通り腕の再封印が成功した。茨木華扇の目的は自由に動かせる生身の腕を戻すことではなく、封印された鬼の腕を手元に置くことだったのだ。

彼女が「邪気を籠められた腕をどのように思っているか」という点では、邪気が籠められた故に人間に害を及ぼす存在となることを良しとせず、人間に害を及ぼすことを防ぐために失くした腕を探し求めていたのだろう。腕が既に人を喰っていたことを知り、すぐに封印しようと動いた点は彼女の理念である「天道」に誓った行動と言えようか。また、彼女はただ腕の再封印するだけでなく「天道に誓って今後一切人間を喰らうことのないよう腕を管理下に置く」という目的もあるのかもしれない。再度、腕を失くしてしまっては時間の経過とともに封印が解けてまた人に害をなすかもしれない、だからこそ封印された腕を隣に置くことを望んだのだと私は思う。

彼女がとった最終局面における行動は第三十五話で語った天道の理念と矛盾はない様子であり、「人間の味方として仙道を歩む」というところに彼女の志は常にあるようだ。五番目物「鬼顧」においては「その腕を戻しても」という歌詞を「封印され箱に入った腕を戻す」と解釈するのであれば、茨木華扇の語る「天道」の要素はそのままに解釈できるだろう。

結局、彼女が仙人となった動機については語られることはなく、前項にて引用した「人に近づきたかった」という情報のみであり、彼女が天道を志すきっかけとなった出来事などは最終回を迎えても判明しなかった。この点については妄想の余地があり、個人的には今後の二次創作に期待している部分である。例えば「元は人間だった茨木華扇が腕を切られた事で邪気を失い、地獄のような現実の中、再度人間の世界で生活することを望んだ」、なんてことも考えられるかもしれない。

以上、五番目物「鬼顧」について茨歌仙完結後の情報を踏まえて語ったものとなる。


◇ブックレット

鏡板には鬼扇。本舞台に立つ茨木華扇。胸に手を当て、失った右腕を憂うような表情で眺めている。

能楽の要素が強いためか、『伝』の歌詞は五番目物「鬼顧」も含め全編縦書きとなっており和風を感じさせる造りとなっている。

鏡板に描かれている鬼扇とは「道成寺」、「葵上」、「黒塚」といった能の演目で般若面を被ったシテが使用する赤地に一輪牡丹が描かれた扇のこと。般若面は嫉妬や怒りによって女性が鬼となった役が使用する面であり、鬼扇を使用する演目は鬼女物として五番目物だけでなく四番目物としても扱われる場合があるが、「人が鬼となった」という要素は五番目物「鬼顧」で語られた内容と良くマッチしている。

ちなみに茨木華扇の服装は茨歌仙や三月精にて見られた冬服仕様となっている。あとタイツ。

イラストは『綜纏Vol.5 空五倍詞色』に収録。


◇雑記

2010年から9年間連載が続き、めでたく完結を迎え、2020年には後日談によるストーリーの補完も終えた東方茨歌仙。新しい連載漫画も始まり、心機一転となったこの時だからこそ茨歌仙を一から読み返していたのだが、少し気付きというか思うところがあったため、今回、五番目物「鬼顧」を題材として選ばせていただいた。

本記事を書くために鬼退治譚を調べるにあたって、「羅生門の鬼」「戻橋の鬼」「宇多の森の牛鬼」といった鬼の腕切伝説を読んだのだが、固有名詞は違えどどれも「人が鬼の腕を切ってその後鬼が腕を取り戻しに来る」という話の展開がまるまる共通しており、ある種の儀式のような、物語のお約束感があるように感じたのだ。平安時代などを時代背景とする古い話であるが故に、後世の人々に伝わる過程で固有名詞がすり替わり、あるいは他の伝説と混同され、その形を変えていったのだろうか。そう考えながら、なんとなく私は、茨歌仙のストーリーも同じようにそのお約束をなぞっているのではないかと思えてしまったのだ。

封印が解かれた鬼の腕が霊夢を地獄に攫い、鬼は人の手により刀で腕を切られる。これはそのまま鬼退治譚に多く見られる人攫いと鬼の腕切だ。次に、腕を切った後、霊夢は鬼の腕を封印するために一人で篭っており、これは伝説に見られる「物忌み」とも解釈できる。他にも、鬼である華扇が篭っている霊夢を訪れている点、最終的には鬼の手元に腕が戻っている点も伝説通りであり、東方茨歌仙の最後のストーリー展開は鬼の腕切伝説をなぞらえているのではないかと、そう思えてならない。もしかすると「鬼を退治するための特殊な方法」とは伝説通りの手順を踏むことなのではないか?と思うほどに。

東方茨歌仙も古き伝説と同じように鬼退治譚として後世に伝わっていくのであれば、茨木華扇の理念である「天道」も伝わっていくのだろう。それらが伝わっていくのであれば箱に再封印された腕も、きっとうかばれるのかもしれない。もちろん物語が形を変えて伝わっていく可能性もあるのだが・・・。

この記事を書き終えた私は力強い鬼の歌声を聴きながら天道の行く末を思う。

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