二色蝶

再思の道のイメージ


Featured in: 徒
track: 8
arrangement: RD-Sounds
lyrics: RD-Sounds
vocals: 中恵 光城
original title: 二色蓮花蝶 ~ Ancients
length: 06:34


◇概要

RDWL-0011『徒』収録のトラック8。

Ancients : 古風人
ちなみに、「二色」と書いて「ニイル」と読みます。「ニイルレンカチョウ」です。
ぱっとみ、花札の役みたいで和風っぽくしたかったから。あと、蓮というキーワードをどっかに入れたかったし。

―『秋霜玉』創曲幻想.txtより引用

タイトルの読み方は「ニイルチョウ」。原曲『二色蓮花蝶 ~Ancients』における”二色”と同じく、「ニイル」という読み方となる。

妖怪に襲われていた「とある人間」が「二色蝶」と出逢い、その命を助けられる。しかし、美しき「二色蝶」への執着と渇望、その姿をもう一度拝みたいが為に「とある人間」は禁忌に手を染めていく。そうして、二人は立場を違えて再び出逢う事となる。

ブックレットおよび原曲から「二色蝶」の正体は博麗霊夢と推測されるが、その様相は普段の暢気な霊夢ではなく、妖怪と対峙したときの通称・異変解決モードに近い霊夢となっているようだ。

この記事では楽曲『二色蝶』について理解を深めていくと共に、原作の描写なども絡めつつ解釈をしていく。


◇登場人物考

『二色蝶』に登場する人物について解釈をしていく。まずは登場人物を列挙する。

「とある人間」:『二色蝶』における一人称

・「妖怪」:「とある人間」を襲った妖怪

・「二色蝶」:博麗霊夢(と思わしき人物)

・「人間´」:妖怪となった『とある人間』に襲われた人間

まず、楽曲『二色蝶』の一人称。最初に妖怪に命を狙われていたところを二色蝶に助けられた人物を「とある人間」とする。この「とある人間」を襲っていた「妖怪」とそれを助けた「二色蝶」が登場人物として存在する。

そして、おそらく妖怪となった「とある人間」に襲われていた「人間´」がいるはずで、歌詞中の「其方も、そして咲かせるのか。 散らすだけでは、飽き足らず。」の捉えようで「とある人間」と「二色蝶」が初めて出逢った時に重なるデジャヴを感じられ、「二色蝶」こそが新たな妖怪を生みだしているという構図が『二色蝶』においては重要な要素に思える。

この項で注目したい登場人物は「とある人間」と「二色蝶」だ。

楽曲の最後、「終ぞ、その名さえ知らぬ、二色蝶。」の歌詞から察するに、「とある人間」は「二色蝶」の本当の名を最期まで知らずにいたことが分かる。この「二色蝶」の正体を博麗霊夢と仮定するならば、「とある人間」は霊夢の名を知らなかったということになる。

そういえば、他の人間は先代を『博麗の巫女』と呼んでいたが、余り霊夢のことを巫女とは呼ばない。まともに仕事をしてないからであろう。自業自得だ。

―『上海アリス通信 ver2.7』より引用

上記の引用は森近霖之助による独白となる。博麗霊夢の名前が知られているかどうかについては、上記が主な情報ソースとなるだろう。”他の人間”が人里の人間を含んでいるかは不明だが、博麗霊夢は巫女とは呼ばれずに霊夢と呼ばれているため、おそらく霊夢の名は幻想郷の人々にそれなりに知られているのではないかと推測できる。霊夢が人里を闊歩する様子や人里の人々に頼りにされているような描写が鈴奈庵や茨歌仙でも多くあるため、少なくとも人里での霊夢の知名度は高いはずである。

以上を踏まえると、何故「とある人間」は霊夢の名を知らなかったのかという点がどうしても気になってくる。「二色蝶」=「博麗の巫女」だとして、博麗神社へ向かえば再び逢うことが可能なはずであり、「とある人間」が博麗の巫女すらも知らない可能性が見えてくる。(しかし、ストーカーのタイプによっては自分から能動的に逢いに行く事を好まず、偶然の出逢いを夢見る者も居るわけではあるのだが)

ここで考えるのは「とある人間」の人物像。私の考えうる解釈を以下に纏めてみる。

①得られる情報が限られてしまう貧民の出の者

人里の中でも貧民の出の者ならば巫女の存在をよく知らずに生きる者もいるのではないかと考えた。人里に貧富の差があるという、はっきりとした描写が原作にあるわけではないが、鈴奈庵第二十四話で貧民街らしき場所が描かれている。歌詞中に「思えば、意味のない生涯。永らえても、望みなどなくば。 」とあることから「とある人間」は恵まれた境遇ではないことも伺える。人里に住んでいたと仮定して、その中で恵まれない立場の者であるならば、貧民とするのが妥当ではないか。この解釈においては、人里における求聞史紀の普及や識字率も気になる部分となる。

②人里の外で育った浮世離れな人間

上に示した①とは違い、人里の外で育った人間であると仮定した場合、博麗の巫女についての情報を得られずにいることも考えられる。「ニイルチョウ」という独特な呼び方はその者の浮世離れさを感じさせる。実際に人里外に住む人間たちがいるかどうかは原作に直接の描写があるわけではないが、求聞史記の「人間の里」の項で「幻想郷の中で最も多くの人間が住む場所」と稗田阿求による記述があるため、少なからず人里の外に住む者も存在しているのではないかと推論できる。もしかすると「博麗の巫女」の事を「ニイルチョウ」と独特の呼び方をする少数部族がいるのかもしれない。

③外の世界から幻想郷へ迷い込んできた外来人

求聞史紀の「外来人」と「再思の道」の項に記述がある通り、外の世界から幻想郷へ来た人間。「再思の道」の項の注釈38の「妖怪は、落ち込んでいる者や、恨みを抱く者、犯罪者等が大好物。ここにはそんな人間も多くやってくる。 」とあるように、外の世界から来た人間は恵まれた境遇の者ではないケースが多く、歌詞中の「思えば、意味のない生涯」の部分にも納得がいく。そして、外来人であれば博麗の巫女の存在も霊夢の名も当然知らないはず。

④博麗の巫女の名を忘れさせられた人間

こちらは「二色蝶」≠「博麗の巫女」と仮定した、少々異端で蓋然性のない解釈となる。博麗霊夢が巫女を辞めた際に「博麗霊夢という人物が博麗の巫女であった事実」を幻想郷の人々の記憶から忘れさせる大きな力が働いていたとすれば、「とある人間」が霊夢の名を知らないことに納得いく形になる。『上海アリス通信 ver2.7』にて霖之助が先代の巫女の名前を忘れている事から思いついた解釈で、霖之助自身は名前を忘れた理由を「霊夢と違い、巫女としての仕事をまともにしていたから」と思っているようだが、実は博麗の巫女を辞めると博麗の巫女のパーソナリティに関する記憶がロックされてしまい、霊夢という個人が誰からも忘れさられた状態になってしまうとしたら・・・?といったロマンある解釈である。

以上、「とある人間」の人物像について、4つの解釈を挙げた。私個人としては③がイチオシ。

あと気になる点は、「二色蝶」=「博麗の巫女」であるかどうか。ブックレットの装束はアレンジされているものの博麗の巫女の装いであり、手にした札に博麗神社と書かれているため、おそらくは博麗の巫女なのだろう。そういう意味で④を異端説とした。


◇徒花、伸ばす腕、幻想

 そうして、
―開花。
この身は、幻の果ての、花。

アルバム『徒』のテーマは「自由」である。

『徒』の漢字一文字には「自由」といったニュアンスが含まれてはいるのだが、”徒”という文字はあまりポジティブな意味で使われるケースは少ない。「むなしい」、「役に立たない」、「無益」、「実りがない」といった、どちらかというと「何もない事」から由来する自由という意味合いが強いのだ。熟語の例では「徒労」、「徒骨」、「徒口」、ことわざの例では「浅瀬に徒波」、「徒の悋気」、「徒花実を結ばず」といったものがある。

”徒”の文字が歌詞に含まれている『二色蝶』。”徒花”とは、2つの漢字が示す通り「咲いても実を結ばない花」を指す言葉だ。ちなみに、2コーラス目のサビに登場する”婀娜花”は、”徒花”と同じく”あだばな”と読むが、意味は「艶かしく美しい花」となる。

歌詞中の”徒花”が指すのは何なのか。おそらくは、「意味のない生涯」、「永らえても望みなどない」、「もとより捨てた命」、実りもなくただ妖怪の餌食となる運命であった「とある人間」を指すのではないか。

生きているならば、一度はきっと。
その命、捧げたくもなるだろう。

しかし、「とある人間」自身は ”命を捧げる” という目的を果たしており、「とある人間」の生涯が”徒花”だったとは言えず、その実を結んでいるようにも思える。この ”命を捧げる” という言葉を字面通りに「自らの生命を捧げる」といった意味に捉えた場合はそう思えるのだが、「恋い慕う・献身する」といった比喩的な意味として捉えるならば、実を結ぶことはなく、”徒花”を咲かせ散ったとも解釈できるか。

ブックレットの「二色蝶」に向けて伸ばされた手の影。描写されたこの場面が幻想へと帰す直前だったとして、伸ばされた手には「とある人間」の実の結び、つまり本当の願望が表れているのではないか、と私は考えている。

焦がれた幻想に手が届くことはなく、咲いた”徒花”は実を結ぶことなく散らされる。

この幻想に向けて手を伸ばすさまは、同じく『徒』収録の『ロストドリーム・ジェネレーションズ』の構図と似たものを感じてしまう。


◇合わせて聴きたい楽曲

▼name for the love

『辿』収録。もし博麗霊夢が「二色蝶」と呼ばれていたのだとすれば、『name for the love』の「いつしか、その名ではない、何かと呼ばれることになろうとも」という歌詞がとても沁みる。『二色蝶』の世界ではもう誰も「霊夢」と呼ぶものがいないのだとすれば・・・。

▼emergence

『音』収録。「博麗の巫女」として霊夢が力を執行する度に大切な何かが失われていく。その果てにあるのが『二色蝶』の霊夢なのではないか。『二色蝶』のブックレットに描かれた彼女の目からは全てを捨てきった虚の心も感じられる。

▼悠久の子守唄

『遙』収録。『二色蝶』の霊夢は未来の霊夢であると解釈した上で、この『悠久の子守唄』を聴くとギャップが凄いというネタ。


◇ブックレット

「とある人間」視点で「二色蝶」を見た構図、その視界には宙を舞う紅白の蝶と「二色蝶」を欲するかように伸ばされた手の影。もしかすると「とある人間」が見た最期の光景なのだろうか。右端最後の歌詞に見えるぶれるような残像は「とある人間」の意識とリンクしているかのようだ。

彼女の冷ややかな目からは蔑みのような憐みのような感情が読み取れそうだが、歌詞中に彼女の内面描写は一切存在しないため、事実は不明。やはり、『どうして・・・』の記事でも書いたように霊夢自身の内面を察するのは難しい事なのである。もしかすると本当は全くの無関心であるのかもしれない。

イラストは『綜纏Vol.3 三怪奇』に収録。手の影がないverのイラストも掲載されているため、襟や袖の模様、蝶々結びのリボン等、衣装に蝶のデザインを取り入れられていることがハッキリと確認できる。

ちなみに凋叶棕のブックレットの中で筆者が一番好きな霊夢が『二色蝶』の霊夢。あの目で見られると心の底からゾクゾクします。


◇雑記

当時、楽曲『二色蝶』を知っていた東方ファンらが鈴奈庵第二十五話を読んだ際に様々な反応があった事を私はよく憶えている。既に妖怪となっていたとはいえ、元人間を博麗霊夢が滅するシーンが直接的に描かれた事に『二色蝶』と重なる部分が確かにあるように思えるが、反響を呼んだのは博麗霊夢が元人間を滅した事実ではなく、その滅した直後のセリフだと私は思っている。

勉強不足だったわね
幻想郷では里の人間が妖怪になる事が一番の大罪なのよ
私の仕事はそれを監視する事

―『東方鈴奈庵』第二十五話 博麗の巫女のセリフより引用

里の人間が自ら妖怪になる事で「二色蝶」を呼び寄せる事ができた、という解釈がこのセリフにより可能となったわけだ。

しかし、「二色蝶」が舞うように花を散らす美しい姿が新たな花を咲かせている、歌詞にたびたび登場するキーワードである ”花” からこの構図の重要性が伺えるため、「二色蝶」を呼び寄せた要因はこの記事の登場人物考で示した「人間´」が襲われている状況であってほしいし、願わくば「人間´」が「二色蝶」の美しさに焦がれていて欲しいとも私は思っている。

要素ひとつふたつを拾えば、確かに連想される部分はあるのだが、『二色蝶』の「蝶が花を散らすことが新たな花を咲かすのだ」という物語要素を大切にして、鈴奈庵の一件と分けて考えるのがベターじゃないかな、と。

雑記に書いたこれらは、この記事の登場人物考にて私が推した「とある人間」が里の人間ではない外来人である③の説とも整合性が取れる裏付けともなる。加えて、ロケーションが『再思の道』であるならば、彼岸花で真っ赤に埋め尽くされた禍々しくも美しい光景に「二色蝶」が舞う、という視覚的にもよりおいしい構図になると思っている。

もし私が再思の道へ迷い込み、妖怪に襲われて死を覚悟していたところを博麗霊夢に助けられたら・・・。

私も同じ道をたどりそうな気が、とてもする。

そんな気がすごくする。

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